新谷正義(しんたにまさよし)を知る
Masayoshi Shintani Profile
プロフィール
衆議院議員 新谷 正義(しんたに まさよし)
MASAYOSHI SHINTANI
誕生日:1975(S50)年3月8日
血液型:O型
趣味:音楽鑑賞、読書
尊敬する人物:徳川家康、大久保利通、池田勇人
愛読書:ローマ人の物語、他歴史小説など
好きな言葉:「一期一会」
日課:子供とお風呂に入る、ウェイトトレーニング
家族構成:妻、子供三人(長男、長女、次女)ただいま子育て奮闘中です!
経歴
昭和50年 3月8日 | 広島県東広島市生まれ |
昭和62年 3月 | 東広島市立川上小学校卒 |
平成13年 3月 | 帝京大学医学部卒 |
平成18年 3月 | 東京大学経済学部卒 |
平成18年~ 24年 | 病院長 |
平成24年 12月 | 第46回衆議院議員総選挙にて初当選(北関東ブロック) |
平成26年 12月 | 第47回衆議院議員総選挙にて2期目当選(中国ブロック) |
平成29年 10月 | 第48回衆議院議員総選挙にて3期目当選(広島4区) |
平成30年10月〜 令和元年9月 | 厚生労働大臣政務官 |
令和2年9月〜 令和3年10月 | 総務副大臣 |
令和3年 10月 | 第49回衆議院議員総選挙にて広島4区より4期目当選 |
令和3年11月~ 令和4年8月 | 自由民主党副幹事長 |
令和4年9月~ | 議院運営委員会理事、自由民主党国会対策副委員長 |
令和5年9月~ | 自由民主党副幹事長 |
令和6年1月~ | 衆議院厚生労働委員長【現職】 |
役職歴任
内閣
- 総務副大臣
- 厚生労働大臣政務官
衆議院
- 衆議院厚生労働委員長(現職)
- 厚生労働委員会理事
- 国土交通委員会理事
- 災害対策特別委員会理事
- 総務委員会理事 他
自民党
- 副幹事長(現職)
- 青年局顧問
- 厚生関係団体委員会 委員長
- 運輸・交通関係団体員会 副委員長
- 国土交通部会 副部会長
- 厚生労働部会 副部会長
- 憲法改正推進本部 幹事 他
主な議員連盟※順不同
- 医師養成の過程から医師偏在是正を求める議員連盟
- 栄養士議員連盟
- 介護福祉議員連盟
- 看護問題対策議員連盟
- 自動車議員連盟
- 自動車整備議員連盟
- 生活衛生議員連盟
- 全国保育関係議員連盟
- 司法書士制度推進議員連盟
- タクシー・ハイヤー議員連盟
- トラック輸送振興議員連盟
- 賃貸住宅対策議員連盟
- 町村の振興を考える会
- バス議員連盟
- 不動産鑑定士制度推進議員連盟
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
- 農業基盤整備議員連盟
- 行政書士制度推進議員連盟
- 鉄道議員連盟
- 書道国会議員連盟
- 学校耐震化・施設整備等促進議員連盟
- 建設技能者を支援する議員連盟
- 国民歯科問題議員連盟
- 社会福祉推進議員連盟
- 国宝・重要文化財を護る会 他
幼少期
1975年3月8日、医療に情熱を注ぐ父・新谷幸義と同じく医師の母・正子のもとに生まれました。人生の最初の1年は自然豊かな世羅、その後は東広島市八本松で育ちました。小学校に上がるまでは、あおい保育園に通いました。広島県の中でも特に森林などの自然にあふれる世羅、豊栄、福富、大和など中山間地域と、八本松原のすぐ近くの熊野、そして地方都市として成長する東広島での生活は、私の原点です。
小学校時代は東広島市立川上小学校に通い、優しい同級生たちと一緒に学びました。当時同級生の中では広島カープの山本浩二選手や衣笠祥雄選手が憧れのヒーローでした。校庭には大きな檜の木があり、その木の下でソフトボールの練習に励んだことは今でも懐かしい思い出です。学校への道のりは、磯松工業団地を右手に見ながら、田んぼの間を抜けて歩いて通いました。途中で出会う川や用水路、木々に住む生き物たちを観察するのが大好きでした。
小学校の後半は、広島市内の塾に通うようになり、塾通学の中で安芸郡によく慣れ親しむようになりました。週末には家族と一緒に安芸郡の町々を訪れたり、買い物を楽しんだりしました。これらの思い出は、今でも私の宝物となっています。
中高生時代
愛媛県松山市にある私立愛光学園に入学し、中高一貫教育の6年間を過ごしました。寮生活を送りながら、勉学だけでなく、テニス、ラグビー、スケートボードなどにも情熱を注ぎました。週末や長期休暇には地元広島に戻ることが何よりの楽しみでした。松山市に帰る際のフェリーからは、呉市で乗船し、坂町や海田町など瀬戸内海沿岸の町々や瀬戸内の島々の美しい風景を眺めることができました。特に夕刻の景色は言葉では表現しきれないほど印象的で、私の心に深く刻まれています。
大学時代
大学は苦難の2年間の浪人生活を経て、帝京大学医学部に入学しました。浪人時代は娯楽らしいことはありませんでしたが、勉強の合間に音楽を聴くことが唯一の楽しみでした。
医学部では、医師になるための修行と勉強に励み、多くの友人たちと知見を深め合いました。学んだ医学を実際の医療現場で患者さんの救助や生活の質の向上に役立てたいという思いが日に日に強くなり、幅広い疾患に対応できる内科医を目指すようになりました。
研修医時代
2001年3月、大学卒業後は東京都渋谷区広尾の日本赤十字医療センターに入局しました。高度医療に取り組むこのセンターを強く志望し、難関の就職試験に合格、入局させていただいたことは、私にとって忘れられない経験です。
日赤医療センターでは、先輩医師の厳しくも優しい指導のもと、医療現場の最前線で働きました。非常に多忙な日々でしたが、得られる知識や経験は多く、患者さんの治療に直接携わる使命感も大きかったです。
学会での病例報告や重症・重篤な患者さんの対応に追われ、休日も含め病院で過ごすことが多くありましたが、毎日が本当に充実していました。日本赤十字社や先輩医師、そして共に研鑽を積んだ同僚研修医には心から感謝しています。
東大時代
研修後、東広島で地域医療に携わる中で、医療と経済の密接な関係や政策が現場に与える影響の大きさを実感しました。より多くの患者さんの生活の質を向上させるには、経済学の知識が必要だと感じ、再び学ぶことを決意しました。
2004年、東京大学経済学部の学士入学試験に合格し、2年間で必要な単位を取得しなければならず、他の学生との年齢差から接点もなかったため、学生生活というよりは仕事と勉学だけの日々でしたが、経済学理論や法律、経済史、経営史を学んだことは、現在の議員活動に大いに役立っています。
医師として
2006年3月に東大を卒業後、茨城県で医療法人の理事長、院長、施設長として6年間、地域医療に取り組みました。孤独と忙しさに耐える日々でしたが、職員の皆さんや愛犬のムサシに支えられました。この日々を通じて、地域医療・福祉の向上や国民全員の生活の質向上には正しい政治が欠かせないことを確信し、自分の培った経験や知識を国民のために尽くしたいと強く思うようになりました。
衆議院議員
1期
第46回衆議院議員総選挙に、北関東比例候補として立候補し初当選。
医療の道から、わが国の国民生活の向上の必要性を痛感し、公募に応募し出馬させていただいきました。初めての政治の世界の中で全てが勉強の毎日であり、基礎を学びつつ、医師として厚生労働分野や災害対策分野に力を尽くし、国民の命を守る政策に取り組みました。
2期
第47回衆議院議員総選挙に中国比例候補として立候補し2回目の当選。
この2回生の間は、まさに外交が大きく動いた時代でした。国際情勢は不安定化し、わが国の安全保障環境の整備は現在も続く課題です。政治信条でもある、国民の命を守る政策に取り組みました。
また、国土交通委員会理事として、八本松スマートICや東広島安芸バイパスの開通を国に要請し、今日ようやく実を結びました。
3期
第48回衆議院議員総選挙に広島県第四区から立候補し3回目の当選。
この間、忘れることの出来ぬ「西日本豪雨災害」が発災いたしました。多くの被害の中、被災地域への医薬品の円滑な輸送や避難所への冷暖房設備の設置などに尽力し実現いたしました。災害の多い国だからこそ、しっかりとした対策に引き続き力を尽くして参ります。
また、厚生労働大臣政務官として、幼児教育・保育の無償化法案を成立させるとともに、介護職員等の処遇改善を尽力しました。
続いて、総務副大臣を拝命し、通信分野を担当し、携帯料金の値下げを実現いたしました。
国民の生活に寄り添い、時代に即した政策を尽くして参ります。